芸術の為の理論 α版

概ね、こんな事を書こうとしている。素人かつ知的スペック不足なので自分ではいつ試論レベルにまとまるか分からず。分析哲学的な詳細の検討もリソース的に出来ないだろう。けど、とりあえず、随時公開。本当は誰か本職の方がやってくれたらうれしい。

要旨

 既存の芸術理論はカテゴリーやジャンルを不用意に導入し、鑑賞態度を予め限定する事で見落とされる情報があり、新しい芸術や他文化の美的存在を理論上取り込めない限界があった。そこで、ウィトゲンシュタインの「語の意味は使用にある」というアイディア援用し、存在を行為タイプによって分析する新たな存在論を展開する。実際の所、この存在論は色即是空諸行無常の発想によって日本の生活の中で長年機能してきているように思われる。

 さらに既存理論が「物理的」と説明してきたものの多くは古典物理的直観の誤謬である事を指摘し、マスクウェルの悪魔から情報の存在を時空上の「不自然さ」にみる事で、心や意図やカテゴリーを行為タイプと情報に還元する。これによりこれまで不明瞭にされて来た心と出来事と物質的時空との関係を明瞭化し、普遍的かつオープンに機能する芸術の定義、および存在論を提示する。また情報理論を援用し芸術の価値理論を示し、生命の有限性および熱効率の理論から批評家の本質的役割を明らかにする。

 これが成功していれば美学は諸学に先立つ知識を得る為の第一の学となり、同時に終わりの始まりとなる。美学の諸分野における今日的議論の多くは語の使用の問題に還元される。哲学のいくつかの問題は言語や心の明晰化により進展する。伝統的形而上学は改革を迫られるが、それはコンピューターのOS移植のようなもので再利用が可能である。その過程で見落とされていた存在や必要なロジックが整理されるだろう。

 最後に『美術館女子』の批評例をとりながら、実際に新しいオープンな理論によってのみ新しい知識が演繹的に得られるのかどうかを確認する。また、そこに見いだされる映えの美学の考察から、近年輸出されたカワイイという美的価値が、その利用の仕方によっては既存の西洋的価値を消失させてしまう可能性について指摘する。

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