内田樹の書評が編集者に中傷された事件

事件の概要

 ホ・ヨンソン著作の『海女たち』(新泉社 2020.3.24)*1という詩集に寄せられた内田樹の書評*2に対して、新泉社で当該訳書の編集にあたったという淺野卓夫氏からブログ上*3で苛烈な非難がなされ、twitterで小さな話題となっていた。淺野氏曰く、内田氏の書評は作品ではなく自分の事を語っているから書評にあらず、作品に対する奇襲攻撃のような言論であり、容認できないものであり、ひとり言に近い異常なテキストであり、件の寄稿はマスメディアで作品を愚弄する行為であり、それがくやしいとの事。twitter上では出版の担当者が露骨に書評を非難するという行為への驚きと、淺野氏に同調して(書評ではなく)内田氏を非難するコメントも多く散見された。*4

 ところが実際の書評を読んでみると、詩集から受けた内田の印象が読者に伝わるように、短いながらも巧みに説明されており、淺野氏から非難される謂われは何もないように思われた。そこで私は、内田の書評が、書評の読者である私の『海女たち』への理解をどのように導き、どのように書評として機能しているかを淺野氏の記事コメント欄にて解説し、また淺野氏の批判の不明点を指摘したのだが、1日も経たずに削除されてしまったようだ。*5

 そこで改めて解説するのだが、その前に前提事項を整理しておこう。
 まず内田の書評は、公式には出版社から謝意が述べられ、「紹介文」としてプロモーションに使用されている。*6 *7

 そして「書評」の一般的な定義も確認しておこう。
書評:書物の内容を批評、または、紹介した文章。(精選版 日本国語大辞典
批評:体験を意識に再現して対象化し,ある規準に基づいてそれに価値判断を下すこと。(中略)芸術批評はそのおもな特性によって主観批評と客観批評に類別され,さらに前者は印象批評,鑑賞批評,審美批評などに,後者は裁断批評,帰納批評,科学批評などに細別されるが,(後略)(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 批評について私も詳しいわけではないが、辞典にある通り様々なスタイルがある。日本では森鴎外坪内逍遥が文芸批評の在り方を議論した没理想論争が有名だ。詩について言えば西洋ではアリストテレスの時代から論じられている。

 と、内田の書評は出版社が謝意を示し、紹介文、即ち「書評」と認識し、また一般にも書評と認識され販売促進に役立つものだと判断している事実が推認できる。また批評のスタイルは様々で有り得る。従って「書評にあらず」と断じてかくも苛烈に非難するならば、なぜ自社の判断は間違っているのか、なぜ紹介文でもなく、どのスタイルの批評文でもあり得ないのか、その根拠を提示する責任があるだろう。根拠のない事実を言いふらして非難する事を中傷と言う。

書評の解説と批評

 さて内田の書評は四段落から成る。第一段落は以降で述べる批評文自体の位置づけについて読者に説明している。韓国文学の知識に乏しく詩歌一般の書評にも不慣れな事実が書かれている。つまり内田の示す価値判断は、他の韓国文学作品と本作の関係から導き出される判断ではないと分かる。いくら内田が感銘を受けて高く評価したとしても、韓国文学ではありふれた作品であったなら、価値は目減りしてしまうだろう。そうした可能性を含んでいるというわけだ。自らの批評理論の及ぶ範囲、射程を断っているとも言える。詩歌の書評に不慣れという事情は、その批評の品質に関わる。だから読者は内田の価値判断が詩歌の一般的な価値判断基準と異なる可能性について予め知る事が出来る。読者が内田によって得られる知識は限定的にしか役に立たないという親切なお知らせだ。
 第二・第三段落は、内田が作品の鑑賞を通じて見出した「ひるむ」という感懐についての説明である。美しいとか、うっとりする、或いは嫌悪するとか、恐れおののくといった感性的な(美的な)価値のうち、第四段落で作品の持つ特徴として言明される「ひるむ」という美的な価値判断がいかなるものか、鯖の味噌煮という具体例で説明されている。済州島の生活に根付く「鯖の味噌煮」を内田は理屈ではなく身体的に、自分の生活にあるものと同じだと感じると同時に、その近さが済州島の歴史や済州島にゆかりある人の経験について何も知らない遠さを浮き彫りにし、単に知らないというだけでなく、「知っているべき事」を知らないという実感を与えたと説明する。念のため説明しておくと「同じ生活文化で身を養ってきたにもかかわらず~知らない」という文の「にもかかわらず」は前後が矛盾することを示す。つまり「同じ生活文化で身を養ってきた→ならば知っているべきだ」という価値判断が示されている。そしてその価値判断は理屈ではなく、鯖の味噌煮という読者の誰もが身体的に知っている感覚によって正当化され、共感を誘っている。
 冒頭で、詩歌と韓国文学への造詣のなさを前置きし、詩の美学理論から作品の客観的価値を演繹する(数学の様に一般理論から自動的に導かれるように説明する)のではなく、主観に基づいた鑑賞批評を展開しながらも、読者が身体的実感を持って共有している経験に訴えかけて共感を得ようとする辺りはとても巧妙だ。知っているべきなのに知らないという不安、焦燥、背徳。そして私たちが鯖の味噌煮をよく知っていれば知っているほど、知らないことの存在が大きく感じられるという理路には説得力がある。
 第四段落では、改めて「ひるむ」という感覚が説明され、作品の美的価値として言明される。文末に「ひるむ」という感覚は漱石夢十夜に喩えられ「存在しない記憶が蘇ってくる」感覚として説明される。非存在は存在しないのだからそもそも気づき得ない。ところがある別の存在が、存在しなかったものを虚構ではなく実体験であるかのように起ち上がらせる。そんな力がこの作品にあると言う。
 あの短い文章でそんな事を言われれば、私などは内田の掌でいいように転がされてすっかり読みたくなってしまう。つまり内田の書評は紹介文として、事実、私に機能しているし、基準に基づいて価値判断が示されているから批評の一般定義にも合致している。それでは淺野氏は一体何に憤慨し悔しがっているのか。

淺野氏の言い分

 淺野氏はまず書評を「率直に言って一語たりとも読むべきところのない内容」だと言明する。つまり私の様な段落単位の読解より深く、語句単位の読解までした上で無価値と判断した事が表明されている。無価値の判断根拠は「書評と呼べない事」だと続く段落で説明されており、書評と呼べない理由は《自分語り》に多くの割合の文字を割いたテキストだからだと言うのだが、まず「自分語り」なる概念がいかなるものか全く曖昧で理解できない。そして見慣れないかっこ記号《》が一層謎を深めている。

 試しにググってみると2014年頃から最近まで、「嫌われる人の話し方」「嫌われる人の言動」という位置づけでSNS・ブログ・Webメディアの記事が多く見つかる。
 例えばmsnの記事*8(渡辺龍太 2020/04/03 20:30)では「「自分語り」ばかりする人がウザがられるワケ 」と題して、「~すべき」という「持論語り」を迂闊にすると聞き手に不快感を与えるから気を付けるべきという主旨が論じられている。この意味で解釈すると浅野氏は、持論を述べたテキストは書評でないと主張している事になる。しかし先述したように一般的には批評は価値判断を提示しなければならないから、「~すべき」を用いずに判断を示すのは困難に思われる。
 別の例では、ChantoWEBの「「隙あらば自分語り」をする人はマウンティング好きなのか…!? 」*9(牧野聡子 2019.01.16)という記事で「隙あらば自分語り」とは「他人の話を聞くや否やすぐに自分のエピソードを語る」ことと説明されているのが見つかるが、今鑑賞批評をしようという人が、自分のエピソードを話さず他人の話を聞くというのでは批評にならない。書評と題して読者からの話を募集するテキストを書いたら、それこそ作品に対する愚弄だろう。
 このように、浅野氏の憤慨の原因たる《自分語り》は、それが一体何なのか、それによってなぜ書評と呼べなくなるのか、その苛烈な非難とは裏腹に全く説明がなされていない。非難の理由や原因が示されないならば、反駁も反省も出来ない。議論にならない。従って、浅野氏が自ら「異議」と呼んでいる批判文は異議の資格を欠いているという致命的な問題をコメント欄にて指摘したのだが、それも削除したとなるとうっかり言葉足らずだったわけではなく、これはいよいよただの中傷なのだろうと理解せざるを得ない。

 もうひとつ理解しがたいのは、内田が「書評を依頼された経緯を説明している」と浅野氏が主張している事だ。浅野氏はその経緯の説明が(何らかの)誤解を招き、不正確だと非難し、その根拠は「訳者の話に拠る」とだけ書かれている。ところが内田はどう読んでも「経緯が分からない」と言明しているし、経緯を憶測までしている。となると浅野氏の言う「不正確」や「誤解」とは一体どんな事柄なのか。本当は内田が依頼された経緯をよく知っているのに、知らないと嘘をついていると非難しているのか、それとも結果的に事実を言い当てられなかった憶測は道徳的に非難されるべきという信念を抱いているのか。こちらも由なき非難である。

結び

 といった具合に浅野氏の非難文はテキストから非難の理由を推し量る事に不能であり、一方的な中傷になっている。従って、おそらく浅野氏はシンプルに、内田の何かが気に入らず中傷したのだろう。だけど人はつい他人を中傷して自分の世界を守ろうとしてしまうものだ。事態が飲み込めたなら、私なら、何にせよ菓子折りを持って上司に謝罪し、内田氏に謝罪する事に集中するだろう。さもなくば、少なくとも、夜な夜な自宅の周りに小麦粉を撒かれて鳥の鳴き声で起こされる事になる、という想像をされるくらいの恨みを買う事は避けられない。