CasaBRUTUS×神藤剛の写真 批評

 

CasaBRUTUS No.257 「アートを巡る、この夏。」を立ち読みしてきた。
その中の一連の神藤剛の写真。素人が浅い鑑賞で批評するのも恐縮だけれども、これは酷評せざるを得ない。構図の意図は1.フェミニズムや、美術界の権威的暴力に対する批判なのか、2.単に無意識に大村克巳に影響されたのか、或いは3.『美術館女子』と無関係に、大衆側にある「アートと女優」の固定観念を利用してコラージュのように配置したレディー・メードな構成作品の構図なのか、分かりかねる。が、いずれにしてもそれが作品である以上、提示される社会の側が既に『美術館女子』を踏まえた時代的文脈にある事実は、作品の意味に関わる重大事として理解していなければならない。

作品の意味の公共性について

「意味に関わる」とは、例えばあなたが眠る赤ん坊に気づかずにドタバタと歩き起こしてしまう事態を想像して欲しい。ドタバタ歩いた「意味」は、何か急ぎの用事があったのかも知れない。乳児を起こす意図はそこにない。なかった。が、ひとたび泣き声を聞き、寝かしつけたばかりの家族が非難の眼差しをあなたに向ける時、「ドタバタ歩いた」という行為の意味は「無神経に配慮を欠いて歩いてしまった」という意味へと再認識され、家族と共に共有される。
つまり、作品が表現行為である以上、その行為の意味は一定程度社会の側(受け取り手)の認識(知識)に影響を受ける。作品を提示する時点でいくらその意図が意識されていなかったとしても、自らが当然知っているべきであり、配慮しなければならない表現方法というものに無意識にコミットしている。
神藤剛が美術館女子との関連を指摘されて、その解釈が在り得ると自覚するなら、仮に発表時に意識されていなかったとしても、自らが「意味してしまったもの」として甘受しなければならない。逆に全く無関係に作品の意味が成立していると考えるならば、受け取り手の社会についての認識がズレている。つまり鑑賞者と表現者の間のミス・コミュニケーションということになる。それはそれで成立しない無意味な会話として自然消滅するので問題ない。が、無意味なものは売れないので商売としては問題があるだろう。
ちなみに表現者たる人も、作品の意味を深く考えるときは下記cf.の哲学本が役に立つかも知れない。私の考えとは多分違うけど遠くもない。未読なくせにお薦めしてしまう。メディウムやカテゴリーを使った美学理論なんかを読むよりは遥かに創作に役立つ。かも知れない。
cf. 三木那由他2019『話し手の意味の心理性と公共性』

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被写体のまなざし

さて、一見同じに見える大村と神藤の表現手法の違いは、ちょうど見開きにあるLouisVuittonの広告写真とヨシダナギの写真の違いと同じ関係にある。
(下記リンクに試し読みあり)

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Vuittonの写真は人の背丈ほどのアートなチェスの駒に複数名のモデルが戯れ、配置され、そのほとんどがカメラ目線でポーズをしているというもの。人物配置はヨシダナギの『HEROES』の様に人為的で均等なバランスにありよく似ている。違いは被写体人物の「まなざし」にある。Vuittonの方はモデルが写真家のイメージしたキャラクターを演じている。それはモデルとして日頃社会に見られている見られ方、社会に求められる見られ方に応じているに過ぎず、個々の人間性や生き様とは無縁のキャラクターとしてこちらを見ている。それゆえに、個々の人物は受け取り手にとっての固定観念的人物像として、既知の記号的な物として受け取られ深く観察される事はない。これは広告写真の目的上、理にかなっている。人物よりも全体的な印象が瞬時に記憶に残ればそれで目的は果たされる。
ヨシダナギの被写体人物の「まなざし」はこれと異なる。モデルはヨシダとの人間的関係性の中で、ヨシダに対して見られたい自分を主体的に見せている。被写体自身が自らの人間性や生き様を肯定し、写真家の構図や衣装の作為を面白がり、作為という小道具を使って「自分が見られたい自分」の姿を見せようと積極的にヨシダにまなざしを向けている。
つまり広告の人物は受け取り手にとって既知の情報であり固定観念と照合するだけで済む。ヨシダの人物は逆に既知の知識から形成された固定観念に収まらない生身の人間であり、注視して観察する事で知識体系を再構築せずにはいられない。これはJ・バトラーが『ジェンダー・トラブル』の中で(多分)主張した「視線の逆転」に似ている。平生われわれは物事を主観的に見ているが、対象に予期せぬ様子が発見された時、注視せずにはいられない。対象の虜となる。対象が人のまなざしである時、我々は見られる者として相手の主観の虜になる。そうすることで、自らの固定観念から作られていた知識体系を解体して、相手の主観をエミュレートし、新たな自分の主観を再構築するのだ。と私は思う。
こうしたまなざしの違いに自覚的になった上で、大村と神藤の作品を見比べてみよう。『美術館女子』と『ART TRIP』に限らず、最早表現手法の違いとして読み取れる。大村の人物は観る者の固定観念を揺るがす。神藤の人物は記号化され、観る者の固定観念そのものとして再確認されるだけである。

解釈の妥当性問題

とは言え、まなざしの違いなんて見て取れない。と感じる人もいるだろう。違いがあると主張する私としては、作品の「普通と違う部分」に注視してよく観察してみて欲しいと言うより外ない。どこか見たことのあるありがちなポーズ、表情、姿勢、視線、佇まいとそうではない部分がどこにあるのか。こればかりは「見て感じる」より外のないことで、だからこそアートやアート的な表現の文化が成立している。人間のコミュニケーションが、感じずに判断出来る表現で事足りるならば、説明的言語や数式だけがあれば良く、右脳的認知機能は最小限で事足りる。それは勿体ない。勿体ないテーゼ(生命の営みはエネルギー効率が良い方がだいたい良い)に反する。
そのようにして個々の人が違いを発見し、個々の美学理論と、作品が提示された社会や文脈についての知識を動員して或る解釈に辿り着いたとしても、その解釈への信念はどれほどのものだろうか。見て感じただけの情報から「作者の意図はきっとこうだ」と強く思われても、物理の実験結果ほどには信念は持てない。
リンゴが木から落ちる法則は強く信じられるが、「愛してると微笑まれたと感じたから愛されてるor騙されてる」という解釈には比較的まだ疑いの余地があると感じられるだろう。表現から作者の意図を読む作品解釈の営みでは、検証フェーズが必要になる。感じられた作者の意思、意図への信念は、作品のさらなる観察や作品周辺の事実などあらゆる関連情報と照合されて合理性が検証される。特に一対一のコミュニケーションではなく、一つの表現が社会の不特定集団に向けられている場合、社会に対する認識にズレが生じていると表現の意味がすれ違う事は意味の公共性で述べた通りで、この検証も必要になる。そうした検証を重ね矛盾がなければないほど強い信念となり、表現から得られた情報が暫定的な解釈(弱い信念)から実感の伴う真実の情報へと変容し受け取り手の知識体系に組み込まれる。

批評

これらの(多分誰もが日頃そうしてるが故に同意せざるを得ない気がしてくる)道理を踏まえて、一連の写真を観ると神藤の作品はどれも表現がありきたり、即ちチープであり、古臭く、被写体となるアート作品や平手友梨奈について洞察出来る情報もなく、表現媒体の持つ目的性からしても機能をあまり果たさないという点で、素晴らしくない。
写真の中の平手はアート鑑賞者の姿として見ればどれも不自然で、逆に女優としてはいつも通りの「見られ方」(ファンのまなざしに応えるいつもの姿)でそこにいる。背後のアート作品とは全く無関係に、神藤のイメージを完成させる為の女優として、部品のようにそこにいる。
平手の佇まいは、過去に延々と私たちの社会が観てきて最早固定観念化された(例えば友近のコントにもある)「女優とアート」のそれであって、たまに目を引く佇まいは美術館女子で見た構図そのものであり、冒頭で述べた通りその構図をとる意味もどう解釈すれば良いのかヒントがなく判然としない。
美術館女子に登場したアイドル小栗は写真家の作為によってアートと対峙させられ、いつしか作品の放つまなざしの虜になり、いつものアイドルではなくアート作品の一部となった(アート作者の主観に呼応した鑑賞者)小栗有以として主体的に写真作品の鑑賞者へまなざし返すという成長物語の文脈の中で成立していた。翻って構図だけがコピーされた平手のまなざしは何かと言えば、女優またはモデルとしてのいつもの平手なのである。
それ故に、一連の写真から読者が受け取れるリアリティーは、平手という一個人のアート鑑賞旅ではなく、神藤のART TRIPとしか受け取れない。訪れた先々で、神藤がアートを背景に女優をコラージュの様にはめ込み、アート作品とコラボレーションされた綺麗な写真作品を撮って満足する。女優とアートをモチーフにした写真家の撮影旅行としてのリアリティ。
その意味で初めて読者(特に平手のファンというわけでもない読者)の側に観る価値が生まれかけるのだが、女優は全て私たちの固定観念の中にある女優であり、構図や演出も全てよくあるそれとなると、読者の側には何の発見もない。残るのは「思った通り綺麗な写真が取れて良かったね。私も写真を撮りに行こうかな。でも同伴者にモデルをさせられないよな。それよりアートの鑑賞を二人で楽しみたいよな」というような消極的な肯定のみになってしまう。この感想がCasaBRUTUSの夏の美術館企画として理想的に機能するべくもないことは明らか(明らかじゃない?)で、それゆえに駄作だと言わざるを得ないのだ。
尤も、雑誌側のギャラ事情なり、写真家側のスキルアップなり、女優側のプロモーションなり、もとより芸能的な力学の結果の所産に過ぎないのだとすれば、真剣に質の高い表現を期待した私が悪いのだが…。
最後に念を押せば、これはあくまでもCasaBRUTUSの規格に応じた神藤剛の一連の写真を作品として観た者としての批評であって、神藤の他作品をも酷評するものではない。むしろポートフォリオで紹介されている広告作品(ref.)は、鑑賞者の側にある固定観念を的確に捉え映像化して配置するデザイン的な写真作品としてその才能がいかんなく発揮されているように思われ、デザインに疎い私などは「プロだぁ」と感服しきりである。